昭和52年11月23日 月例祭
先日から東京の稔さんが、ひょっこり夫婦でやって参りました。あちらに見えるお客様で、大変有名な彫刻家の方がおられる。「僕はぜひひとつ先生に、大黒様を彫って貰いたいと思う」と言うておったら、本当にそれをあの彫って来て下さった。見事なこんくらいばかりの、本当に見事な大黒様。それで持って参りまして、まあ御祈念をして頂きたいというわけです。
その晩早速御神前にお祀りさせて貰って御祈念をさせて頂いておりましたら、右に持っておいでられる打出の小槌を左手の方へこう持ち替えられる所を頂いた。まあ普通で言うなら是で御神が入った。もう大黒様ではないこれは合楽で言う所の福神であり、同時に教祖金光大神だと言う事になるのです。皆さん大黒様をここでもう何百体の大黒様が、もう大小様々な大変な値打ちのある、金額にすれば相当の金額の大黒様を皆んなが、まあ奉祭されました。まあ異様な惟は事ですけれども、まあ合楽流と申しますかね。
もう本当に特に金銭の送り合わせが頂けるというので、そのあらたかだというので、皆さんがお祀りをされる。そして神様へ奉仕をなさるのと同時に、お水を御供するお茶を御供する。そして一生懸命それを御祈念をなさる。もう不思議に思いがけない金銭の送り合わせを頂けれる。ところがこの頃、その大黒様をお祀りはしておるけれども、時々お水を忘れたり、お茶を忘れたりするようになって、段々その大黒様の、言うなら福神の言わば威力が無くなってきたかのような感じがするんです。
昨日、一昨日も伊万里の吉富さんが大きなお仕事をなさっておられます。その大きな会社組織をなさって、そしてあちらにもこちらにも大きなゴルフ場を持っておられるという東京の大変有名なまあお金持ちさんです。その方の所へ社用でおいでられたところが、その玄関入ってすぐの所に、もうこんなに大きな見事な大黒様がお祀りしてある。お祀りというよりもそこに置いてあった玄関に。
それで初めてのその方と面接で「お宅には見事な大黒様が表に置いてありましたが、実は私は合楽教会の信心を頂いておって、あなたとのお仕事の上でも、もういちいち合楽の先生の御神意を頂いて頂いてから、なさして頂いておるわけですけれども、あちらでは親先生は、大黒様は福神様と言うて大変大事に致します。そしてみんなが大変おかげを受けております」と言うて話したところが、大変感心されて、実は私はその大黒の、大黒様の収集家であった。同時に古伊万里ですね。
何百年経った伊万里の焼き物を、古伊万里を収集することに大変、そのまあ道楽といえば道楽です。そこには純金のこんな大黒様がある。それを造らせたときにあんまり光輝くからそれをたたきにして、体のところだけあんまり光るから。そして打での小槌だけを、まあがきらきら光っておるという大黒様がその家にある。まあ様々な大黒様が集めてあったと。「今度九州にお見えになったら本当に一つ、あの生き大黒様に御紹介いたしましょう」というわけで、昨日一昨日、先一昨日でしたでしょうか。
東京の方達二、三人と吉富さんがお導きをして見えられました。まあ応接間でお茶を差し上げたら、もう私が入ったなり、もう「本当に大黒様だ、これはもう生きた大黒様だ」と喜ばれるんです。ですからまあ大黒様によう似てござるとか、あれは三代金光様に似てござるとかと言うのは、これはもう本当に「器量が悪い」と言われんもんだから、大黒様によう似てござる、て言うて笑いましたことでしたけれどね。そして二、三時間しましてからでした。
伊万里に帰られて、すぐまた電話がかかってまいりました。「大変な大黒様の御利益を受けてもう本当にたまがります」と言うて電話がかかってきたんです。と言うのはね、東京その方が見えておるというので、伊万里のその古伊万里を専門になさる方がですね、大黒様の古伊万里焼を持って見えた。「これはもうなんぼ幾らかかってもこれは東京のお土産に買うて帰らせて頂く」と言うて、「まあ生きた神様の御利益ちゃこんなあらたかなもんだろうか」と言うて喜んでおられますというお電話がかかりました。
話を聞けば笑い話のような話ですけれども、すさまじい言うならば神様の働きをそこに感じます。そういうすさまじい例えば働きを受けるということ。初めの間、皆さんがもうその珍しさのまぎれか知らんけれども、さあ「福神様親先生」と言うて拝んでは、朝晩の言うなら奉仕も忘れることなしにおかげを頂いて、生き生きと神様に心を向けておるところからおかげを受けた。
先日椛目の田中さんのところの、私にとっても叔父であり叔母である人の式年祭を奉仕さして頂きました。叔父の三十五年、叔母の二十年同じ、月は違いますけれども、同じ年ですから。その時に頂きました御理解の中に、初め『耳地』ということを頂きました。じというのは「耳」と書いてある。そして大地の「地」が書いてある。だからこれは何、「耳」と書いて「地」と書いて何と読むだろうかと。だから「耳」という字は耳鼻科の耳ですからじと読む。
『耳地(じじ)』どう言う事かと思ったら、次に「婆(ばば)」という字を頂いた。ははあ耳地婆(じじばば)と読むんだなと思うておったら、あの「耳地婆の一つキセルや福寿草」草と言う字がなんか庵という字やら草となんか分からんような感じだったんです。で今日また改めて、今日秋永先生ところの奥さんのお母さんの五年の式年祭がありました時に頂いたのが、あの蘭のお供えがずっとある。その『福寿蘭』と言う事を頂きました。だから福寿蘭という花があるかどうか知りませんけれども。
これは福寿草よりもやはり福寿蘭の方が句としてもいいようですね、年寄り老人二人が夫婦が一本のキセルであちら吸いこちら吸いしておる仲睦まじいおかげを頂いておる。福寿のおかげを頂いておる。御霊がこんなに助かっておるんだと言う事を表現して下さったわけでございましょうけれども、この耳地と言う事なのです。お話を頂く言うならば耳が肥えるわけです。けれどもおかげにつながらないのは、心が肥えないからなんです。ここではね、天の心を麗しい心と美しい心と。
地の心を受けて受けて受けぬく心。どんなにいやな問題、難儀なことであっても、それを自然の成り行き、神様が私に求めたもう修行であるとして受けて行こう。それこそ黙って治めようという行き方、もういよいよ心が豊になって行く。という御理解を頂いてまいりましたが。もうひとつ言うならば御教えを頂く。そしてそれが耳だけが肥えるのではなくて心が肥えることのために、頂いた御教えを行じて、いよいよ心が豊になる。この二つのね、教えを頂いて心が豊になる。
教えを頂いて行の上に現して、生活の上に現して心が豊になる。成り行きの全てを大事にして頂くと言う事。その成り行きを大事にさせて頂く、黙って治めるという行き方で心、もういやが上にも心が豊になる。しかも大きくなって行く。そこに豊かな大きなおかげが受けられる。それで本気でまた大黒様を拝むなら、なおおかげが受けられると言う事になるのじゃないでしょうか。
私はまあだ実は今日の二時、二時半からでしたでしょうか、あの霊祭を奉仕させて頂いて、その霊祭のあまりにも生々しい御教えを頂いたり、その御霊様の感動を頂いたりして、それがもう直に伝わって来る思いで、まあだ私はその興奮が覚めておらんのです実は。何かもうそのことばぁっかり、今も私こうあの祭員仕え、あのここで例えばお祓いを受けさせて貰うんだけれども、私が受ける前にみんなが受けよるけ、あら私はもう仕舞えたとじゃろうかと思うてから考えてみたけど、受けた事を自分で覚えんの。
確かにこれ祭員がこうやって座っておるから、前に文男先生が座っておるけれども。今日はこう聞きながら文男先生が来とらんごとあったんです。だから途中で「今日は文男さんは来とらんですか」「いいえ来とりますよ」と言う様な、まあ言うならばどう言う事でしょうかね。まあぼうけとるような感じですけれども、まだ興奮が覚めとらんのです。私はこのことをあのお祭の後にお話を聞いて頂く、もう興奮一杯でと感動で、あのまだ覚められないくらいなんですけれども。
今晩の月例祭にはこの感動を、この私の興奮する程しの感動をです、みなさんにどうでも聞いて貰いたいと思うのです。お互いお道の信者、いわゆる金光教の信者としておかげを頂いておると言う事を、第一ひとつ本気で御礼を申し上げななりません。とりわけ合楽に縁を頂いておると言う言が、こんなにも特別の御守護の中にあるんだ、特別のお働きの中にあるんだと言う事をです、最初に大黒様の例をもってお話を申しました。皆さんが「親先生」と拝まれる。
「金光様」と言うて拝まれる。大黒様もうすでにそれは姿形は大黒様であっても、合楽で御祈念の頂かれた大黒様はもう大黒様ではなくて、教祖がおっしゃる「この福神を祀るならば家に宝の尽きることは無い」と桂先生に言い持たせられて、九州の地に金光様をお迎えされ、九州に道開きをなさったのです。「この福神を祀りなば家に宝の尽きることなし」。もうすでにその四神様がおっしゃるところの、もう福神様なのだ。その働きはどう言う事かと言うと右手に持っておる、左に持ち替える
。ここでは皆さんが造られます大黒様の、最近のは全部左持ちの大黒様ですね、打での小槌は。それはこちらが注文するから。そのことを私、先日伊万里の東京から見えたという方にお話しておりましたら、その四国のあの人は、大黒様造りで日本一の名人だそうですね。そういうところに例えば合楽の大黒様を皆さん頼んでおられるわけなんです。そういう例えば、生き生きとした働きが頂けれる神様、しかもそれを生き生きと現しておるのが現在の合楽だというふうに思うのです。
今日霊祭の時に、神様にただ今から、霊祭を仕えさせて頂くと言う事を、お届けさせて頂いておりましたら、あの襖があれはなんと言いますかね、あのお芝居で、吉田屋のと言うところがありますよね。料亭のこう襖を幾つも幾つも開けて、ずっと入って行く所が、ああいう情景、もう襖がいくら向こうに、何処まであるか分からんと、言った様な感じの所を、あの誰かが襖をこう開けて、そしてそこへ人を招じ入れれる、動作というか様子を御神眼に頂きました。
ほいで御霊様の例えば式年のお祭と言った様なものはどう言う事かというと、御霊でも御神徳を頂いて、それこそ御霊ながらの助かりを頂き、御霊ながらの力を受けておる御霊はまた別です。けれども、普通一般の御霊は一生懸命御霊ながらに精進をさせて頂く手立てをね、御霊ながらに覚えて行くのです。それを合楽の御霊様達は段々体得して、御霊ながらの働きを受けて、おかげを受けておる。
私が毎朝、霊神様に御礼を申し上げるその中に、先ず第一に、合楽の改式をしておられる所の御霊様達に申し上げることはどう言う事かと言うと、「今日もいよいよ安心の御霊、喜びの御霊としての精進をなさるように」と言う事です。それから合楽に縁の限りの信者、それはただ一遍しか参ったことのないと言う様な縁の人であっても、もうその縁につながる御霊達、がどれほどあるか分かりませんけれども、その御霊達が助かられることのためにどうぞ、御霊ながらの助かりを私が願います。
そして御霊ながらの助かりの手立てとして、朝晩合楽理念をここで頂いておる。「合楽理念に基づいて御霊ながらの助かりを頂くように」と言うて願う。次には教団全体の上に百年になる此方大変な力を受けて、あちらに御霊の世界でおかげを受けておられる御霊達に、改めて教団のことを祈り、お取り次ぎを願う。「御取次をして下さい」と言う願いをする。次に教団全体の金光様の御信心を頂いておったという人の御霊達に、それでいてまだなおかつ助かりを得ていない御霊達にです。
折角お道の信心に縁を頂いておるのですから、言うならば「教団の力とも根ともなれるような御霊としての精進をなさるように」と言うて願います。次には世界総氏子の精霊に向かって、合楽教会の御霊殿を通して、敬意を表します。五つに分けて言わば御霊のお祭は、私は御霊様への御祈念の時には、これは毎朝そうなんです。それがね私はどうしてそう言う風に区別をして、祈りの内容がなぜ違うかと言う言が実は分からなかったんです。ところがね、実はそれが今日は分かったんです。
もう新しいこと本当なこと有難いことが分かると言う事はね、もうこんなにも有り難いものだという、とにかく私はもう数時間経ちますけれども、その感動がまださめやらないていうような感じです。いわゆる興奮するまでにそれを感じました。なぜに合楽に御神縁を頂いて、そして改式のおかげにまで進ませて頂いておる人達または御霊達がです。どういう取扱いを受けておるかと言う事をです。
霊前に出ましたら皆さん御存知でしょうか、京都に竹原はるという地唄舞の名人のもう七十か八十になられるお婆さんがおられます。よくテレビなんかで出られます。もうそれはもうほんとにもう、やはり国宝的な舞です。もうなんとも言えん舞です。その竹原はるさんがね、あの片膝をこうつけて、なんとも言いようのない程粋な姿でね、鏡をこう持って後ろから、あのあれはなんて言うでしょうか。手鏡を持って後ろから落とすっていう鏡はなんて言うですか。
そればねしとりなさるところを頂くとです。もうその艶かしいというかなんとも言えん、それは踊りの所作ですから艶かしく素晴らしいんです。ほうとでも本当にこれはあのどういう意味だろうかと思わせて頂いておったら、それが杉山のお婆あちゃんに変わって行くところを頂いたんです。杉山のお婆ちゃん皆さんご承知だったか知れんけれども、それはもう若い時はどげん美しかったじゃろうかということ器量が良うなさいましたもんね。して姿もいい方でした。粋な方でした。
その姿をこう鏡を持ってこうその、竹原はるさんという人の姿が、杉山のその今日のお祭を受けられる御霊様の姿に変わったかと思うたら、そのありありとです。この手鏡に映る姿がね、そのお婆あちゃんの姿ではなくて、夜叉の姿が映る。夜叉の面というのがあるでしょうが。もう私はねそれを頂いた時に、もう本当にもう身震いが出ました。それは恐いとかそう言う事じゃないです。竹原のじゃない、杉山のお婆あちゃんがそういう夜叉のような人であったという意味でもないです。
言うならば御霊の世界、心の世界というところはもう姿形じゃないのです。もう魂のその姿そのままが映るのです。歪んでおれば歪んで映る。汚れておれば汚れて映るのです。ですからね、なら合楽で改式のおかげを頂いておる人達の御霊様がです、どういう扱いを受けておるかと言うと、ならこの一部屋に招じられた。そして五年間一生懸命修行する。そして修行が出来たら、また式年のお祭を境に次の部屋に、もうこれは限りなく奥、信心の奥我へ信心の奥我へと御霊が進んで行くのです。
そこに言わば後に残った遺族の者の、いかに手厚い信心が出来なければならないかと言う事と、御霊ながらの精進が御霊なりに出来なければならないかと言う言が分かります。しかも、その合楽で縁を頂いておる御霊たちがね、いつも毎日でしょ言うならば。その鏡を立てて後ろ前から眺めさせて頂く自分の姿に、ある場合には、愕然とするでしょう。自分の心の汚れ、自分の心の見苦しさが魂の見苦しさが映るのですから、もうどうしてもその汚れを落とさにゃいけん。
歪んどるなら真っ直ぐしなければおられないのが御霊の世界であり、合楽に御縁を頂いて、そして特別の扱いを受けておる御霊たちのこれが精進の姿んです。手鏡に映る自分の姿というものがです。段々魂が清まって段々おかげを頂いてまいりますならば、それがそれこそ神様であろうか仏様であろうかと言う様な顔に映じて来る様に成る。それを楽しみに御霊達が精進をしておる。そういうおかげの頂けれると言う事は、合楽で改式というおかげを受けておる御霊に限っての事だと言う言が分かった時です。
はあこれはもう御霊ながらも、例えば自分の穢い姿がそこに映るのですから、それを言うならば綺麗にせず、もう魂のこと肉体を持ちませんでしょ、痛いもなからきゃ痒いもない、ただ魂だけの世界ですから、もうそれに専念して研いて行くわけです。そしてなら五年間なら五年間みっちり清めて、そして一段と御霊の位も進んで、しかもこれは限りない信心の奥我へと進んで行くというそのお知らせを頂いてです。
これは大変なことだと、合楽に御神縁を頂く方達がまあいろんな事情で改式が出来んならば、とにかく改式が出来んならば、言わば御霊様だけでも合楽にお預けさせて頂いて、まあ家族親族の御霊でなくても、自分の親なら親、爺さんなら爺さんという御霊様だけでもお預けして、御霊の言わば合楽の御霊の世界に席を置かせて頂くことを、いよいよ奨励しなければけないなと言う事を実感しました。
そこでです。なら私共の姿もね、鏡を見てこう立てればです。私共の姿が映る。けれどもその心が映るような手立てがないものか。それが私が朝晩説かせて頂くところの御教えである。耳地婆のというその耳地である。有難い御教えを耳から入ってくるならば、入ってきただけではない、耳だけが肥えるではない。それを本気で日々行じさせて頂くところからです。その地の心心がいよいよ、いやが上にも豊になっていくと言う所のおかげを受けて行くのです。
私共がもっておるその難儀の様相というものは、そのまま私共の姿なんだ。子供が言う事を聞かん、その言う事を聞かん姿がそのまま私の、子供の姿は親の鏡だとさえ言われておるのですから、もう間違いなくそうなんです。御霊様達は自分の姿が言うならば心がです、心がそのまま夜叉の様な人は、夜叉の様に映ってくるし、同時に今日はここの花にこちらは蘭の白い花、こちらには真っ赤なバラがこう入れてございます。
今日はあの福間の井川さん達が親子で、朝もうあちらへ下がっておりましたら出て参りました。ある小さい会社を持っとります。本店の方からその小さい会社二つを、もう立ち行かんから一つにせろとこう言われておる。だからそれをオーケーして良いか悪いかをお伺いに来たんです。そしたらね頂きますのが、瀧がずううっとこう落ちておる。瀧の下には滝壷があるそこの水をです。バケツで一杯汲もうが二杯汲もうが同じだと、相手の小さいその会社というのは何時もずうっと赤字続きだそうです
。けれどもねそれが一つになることによってです、なら十人の会社であるというなら、二つ合わせるから二十人になる。二十人ものお賄いを受けるということはです。神様にお縋りをしお願いをして行くならば、それで難儀に困ると言う事はない。それがちと向こうの支店長と自分というのがあまりその、こちらが合わせて行こうとして努力すれば合うけれども、でなかったらことごとに自分とは考え方の違う男だとこう言うんです。「実をいうたらいかいさん、それの方がいいんだよと。
あんたのようなんだけだったら、あんたのようなおかげだけしか頂かれん。そこに白と赤とあるからこそです。言うならば白と赤の調和が取れる時に、言うならば目出度いおかげになってくる。言うならば紅白のお鏡餅と同じことなんだ。これがいよいよ一重ねになった時に、めでたいおかげになってくるんだ」と。問題は信心によって、その調和を取って行く。自分の気に入らんと言う所、信心で見ないから聞かないから合わないのだ。その白と赤であると言う事の方がおかげなんだと。
そこを信心で調和をとっておかなきゃいけない。そうするところからね、いわゆる紅白の鏡餅のような、目出度いおかげになってくる。だからそれはオーケーしても良かろうと。神様にお願いをして行く限りおかげが頂けるだろうと。けれども一つ間違うと、いわゆる紅白歌合戦のようになってしまう。源平の合戦になってしまうわけ。白と赤だというのは。だから信心という、言うならば御教えによってそれが調和を保って行く時にそれが、いよいよめでたいおかげになってくるのです。
金光大神はそういうめでたいおかげの頂けれる道を教えて下さるのです。ですからそれをです。いわゆる耳で聞いて耳が豊になるだけではなくて、その御教えを自分の本当に血に肉になって行くところのおかげにして行かなければです。言うならば「耳地婆の一つキセルに福寿蘭」ですか、と言う様な事に成って来ない。どうでしょうか、その耳地ということ、聞いておるだけ詳しゅうなっただけで、自分が心豊に肥えて居ないとするならば、こんなにもったいない話はない
。言うならば最初にお話しましたように、大黒様言うなら、合楽の信心というものがどういう生き生きとした働きを、いやすさまじいまでの働きを示しておられましても、それを受け止めさせて頂くのは私共の心一つである。その心がいつも生き生きと喜びに溢れておる。黙って治める黙って受ける、成り行きを尊ばせて頂くという生き方によって、いよいよ心が豊になる。だけではない教えを頂いて、その教えがいよいよ肥料ともなり、そしてそれが血にも肉にもなっていくと言う所にです。
いよいよ以てのおかげ。御霊様達が魂の世界に入って、御霊の世界でそういう気になる。言うならば合楽のところまで引き上げてもらって、そしてそこから日々研く手立てという、改まりの手立てというものを頂いて行っておると言う様に、私共もそういう手立てを日々頂いておるわけでありますから、ここのところのおかげを頂いて、信心させて頂く者の冥利を受けたいと私は思うのです。
今日は同時に、とりわけ私がそれこそ興奮する程に感じました。皆さんの言うならば、見えない世界におられるのが御先祖です。ほんなことじゃろうかと言うて疑えば限りがないです。けれども目に見えないと言う所を大切にすると言う言が言うなら、神様が言わば、感じなさると言う様なおかげを頂いた。目に見えない心をいよいよ大切にさせて頂く人に神様の心が動くのです。
ですからいよいよ御先祖を救いたい助かって貰いたい。根がいよいよ豊になって行く事の為の願いを持つならば、先ずは改式の願いを立てさせてもらい、そして霊肉共の助かりというおかげになってきたときに、本当の助かりと言う事になるのじゃないでしょうか。今日はここんところをね、聞いて、そして皆さんにも、そういう信心を一つ理解して頂きたいと思うて今日の霊祭のお話を聞いて頂きました。
どうぞ。